第1話 出獄じゃなくて出国

 1968年8月12日、この日横浜港からシンガポールへ向け、フランス郵船「カンボジ号」で旅にでた。半年程東南アジアで優雅な旅を楽しむはずだった。横浜ーシンガポール往復の船の切符、懐には当時の持ち出し金額目一杯US500ドル(レートは360円)と日本円2万円があったし、物価の安い東南アジアなら半年ぐらいは暮らせるだろう、お金がなくなれば日本に帰ればいい、と至極気楽な出国であった。当然計画、目的もなくただ外国へ行ってみたい、それだけであった。

当時海外旅行を経験した人など私の周りには一人もいなかったし、身近な話題にもならなかった時で、今のように情報誌が溢れかえっているはずもない、持っていたのは一枚の地図だけだった。
 普通なら綿密な計画、訪れるであろう地域なり都市なり、下調べぐらいするだろうが、私は一切そのような事はしなかった。頭の中は日本を出るという事で占領され、その後の事など入る余裕などなかった。考えなかった訳でもないが、いかんせん情報が少なかった。

 出港も間近になるとさすがに行った先の事が心配になる。言葉の問題、食事、泊まるところ等、どれも問題である。言葉は日本語だけ、東南アジアの食べ物なんて食べた事はない、ホテルなど修学旅行での経験しかない。こうなると今度は頭の中が不安材料に占拠されてしまう、しかしいくら考えてもいい対策はない。やはり語学が最大のネックになる、それさえ解決すれば大方の事は解決する、が、その時間はもうない。

 出港日全ての問題を解決した<注>私は小さなショルダーバッグ一つを肩に、「カンボジ号」に乗り込んだ。これから金がなくなるまでの数ヶ月間の事を思い、優雅な船旅に大いなる期待で胸はワクワクしていた。
 船室にバッグを置いてデッキに出る。大桟橋は見送りの人達で一杯だ。以前から船が好きで、一時は船員になりたかった時期もあり、時々ここに来て船の出港など飽きずに眺めていた。その時は自分が見送られる事になるとは夢にも思っていなかったが、今こうして見送られていると思うと大感激。

 船がゆっくり桟橋を離れ始める、私も近くに飛んできたテープを手にする。誰が投げたんだろうか、あまりに多くのテープが絡み合い特定する事が出来ない。離れるに従い、テープは握っている人の気持ちを無視し、切れてゆく、一本そしてまた一本、日本を離れるんだ!ふっと気が付いた。

 夕食後デッキに出る、月明かりの薄暗い海の上を船は進んでいる。周りには何も見えない、まるで大洋の真っ只中に一人ポツンと置かれているようで不安になる。追い討ちをかけるように、今後の事などが脳裏に浮かぶ、「やめてくれ!横浜に引き返せ!」そう叫びたかった、ほんの数時間しか横浜港から離れていないのに。


 こうして私の3000日を超える旅が始まったのです。
 まさかこんな事になるとは思ってもいなかった事でこの後の人生が大きく変わってしまった忘れる事が出来ない日です。当時海外渡航(海外旅行とは言ってなかったように思う)が自由化されて数年たった頃でボチボチ体験記が出版され青年達が海外旅行を夢み始めた頃だと思います。
 私もその一人で海外旅行に憧れて(国はどこでもいい)フラフラと日本を離れました。目的も計画もないまして期限のない旅となればどうなるか? 選択肢はそんなに多くはないと思います、私はお金を節約してなるたけ長い間旅行をするを選びました、これが私の場合日本へ帰らない(帰れない?)と言う結果になってしまいました、理由ですか?色々あると思いますがまず自由な生活(?)でしょう、好きな時に起きて好きな事をする、お金がなくなればどうにかしてお金を稼ぐ、ある程度我慢して働いてまた自由な生活をする、こう書くと簡単に世界中で仕事が出来て生活出来るのかとお思いでしょうがそうではなくてそういう風にやっていける知恵が自然と付いてしまうんです。私は旅をしている間に数ヶ月間無一文で乞食をやってましたし、11月のみぞれのアウトバーンで半袖シャツでヒッチハイク、赤道の南の国ではお金も仕事もなく1週間ほど断食修行を、東南アジアのある国ではこんなにお金が入ってきていいのか不安になるほどの成金になった事もあります(この時フーテンの寅さん生活をやめていれば今ごろは...........?)、とまあ悲惨な生活の方が多かったように思いますが楽しかった、全て遠い昔の思い出です。

<全ての問題を解決した>

 これは簡単に言ってしまえば「開き直った」であり「諦めた」です。
 どこの国でも野良犬はいるだろう、彼らはしゃべれない、でも生きている。まして私は人間の格好をしている、野良犬より有利だろう、乞食をしてもゴミをあさっても周りに知り合いはいない、「なあーんだ楽勝じゃん」

2000年2月20日記

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