第5話 カルチャーショック

 インドのボンベイで船を下りた私は非常なショックを受けた。何だこれは、東南アジアとは全然違う。今までの旅がいかに楽な旅であったかを痛感した。60年代の終わりから70年代にインドを旅した人には判ると思うが、文章でどう説明したら良いのだろうか、汚い、臭いは他の国でもあるが、あれほどの国は他に知らない。
90年半ばに訪れた時には見違える程改善されていた(30年も経てば当然か?)そんな事はどうでもいい、私は彼らの「好奇の目」と「乞食」で参ってしまったのだ。
道を歩いていれば乞食の群れ(?)に取り囲まれる、単独(?)の乞食などどこを見ても1人や2人視野の中に居る、インドの風景画の中に乞食が居ないのはインチキだぐらいの会話を当時の私達はしていた。
「好奇の目」にはもっと参った。例えば駅で列車を待っていたとしよう、我々貧乏旅行者は万年栄養失調気味なので立って待つ事が出来ない、べったりホームに座ってしまう。今若者の間でそのような事が広がっているというが、私なぞ30年も前からやっていたぞ、それも外国でだ(威張る事ではないでしょうが)
 まあいい、そうして座っている目前1メーター程の所に誰か立ち止まりでもしたら大変だ、アッというまに人だかりが出来て、そのうち私が何か芸でも始めるのではないかというような目で私を注視しつづけるのである。
タバコを吸おうとバッグの口を開けると、人の輪がぐっと狭まり全員の目がバッグの中に注がれる、中には目の前にしゃがみこむやつもいる、こうなると金縛り状態になってしまう 、助かる道は2つ、そこから逃げ出すこと、そしてもう一つは私より興味を引かれる物(者)が現れるのをひたすらヒンドゥーの神々に祈ることである。
そこに西洋人のお姉さんの2、3人連れでも現れようものなら、おお、祈りが通じたかとヒンドゥーにすぐにでも改宗という気分になってしまう、そんな中どうにかデーリーまでたどり着いた。

 デーリーはボンベイよりマシな気がした。しかし嫌気のさしている私には同じだった、一刻も早くインドを出たかった。
気持ちは固まっていた、西パキスタン(当時は東西パキスタンだった)へ行く、東南アジアだけのつもりだった私には東南アジア以外の地図はなかった、どうにかなるだろう、逃げるようにインドを出た。


 68年に初めてインドを訪れた時の印象は最悪なものだった。「第4話 インドへ」の写真をよく見てほしい、入国が9月29日で翌月の6日にはフェロザプールから西パキスタンへ出国している、1週間でボンベイから国境まで陸路を移動した事になる、時間に制限がある旅でもないのに余程インドにいるのがいやだったのだろう、そのくせ2ヶ月程後に再入国している。
 1ヶ月半程の東南アジアの旅を経験したぐらいではインドに歯は立たなかった。それぐらいインドの個性は強烈なものだった。
その個性に馴染めなかった者は二度と来たくないと言い、その個性に馴染めた者は大好きになる。
あれだけ意見が両極に割れる国も珍しいと思う。当時私は前者で、もう二度と来るもんかと思いインドを後にしたが、その後数年間毎年のように訪れる事になるとは思ってもいなかった、しかし今でもインド人にはあまり好感は持っていない。

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