第7話 西へ西へ

 68年10月6日(パスポートのスタンプによると)にパキスタンに入国、その年の11月11日(私の記憶によると)はコペンハーゲンに居たのからすると、大分先へ先へと急いでいたに違いない。
 イランのザヒダンで息を吹き返した私は、どこをどう通ったかは記憶しているがイスタンブールまで、どこで何をし、どんな事があったのか全くといっていいほど記憶がない、ザヒダンからバスでケルマン、ヤスド、イスファンそしてテヘランへと抜けた、観光旅行に興味もなかった私は途中にある遺跡など見もしなかった、今から思うと非常に残念な気がする。テヘランから国境の町タブリズまで鉄道を使ったと思う、インドでもそうだったがこの辺の列車ではよく網棚に寝た、本当に網なのでちょっと狭いハンモックってとこだ。

 話はイランからそれるが寝台列車(?)の話をしよう。インドでは事情があって(?)だいぶ長距離列車を利用させてもらった(この話もそのうちに書くつもりだ)、当然3等車で寝台なんてない、寝るのは座席で、座席の下で、網棚で、通路でと、要はどこでもいい、横になれさえすれば座って寝るよりず~っと楽だ、インドで空いている列車にお目にかかったことがないくらい混んでいる、そんな中に、だれもいない部屋(?)のような所があった、ちょうど2畳ほどだろうか、インドの列車は真中の通路をはさんで両脇に向かい合わせのボックスシートになっている、その2ボックスを部屋にしたようだ、窓側に棚というか2段ベットというのかがあって、通路側は鉄格子になっている(全ての列車にあるわけではない)、中には誰もいない、こんなに混んでいるのに、私はそこに入ると棚に横になった、暫くすると車掌が検札に来て出ろと言う、どうも良くはわからないがそこは犯罪人を護送する為の部屋らしい、どうして悪いやつがこんな好い所で私があの混雑した中で我慢しなきゃいけないんだ、なんなら鍵をかけても構わん、と、ごねていたら諦めたのか行ってしまった。しかしあれでは動物園のサル状態でみっともよくない、当時インドには「人権」という言葉はなかったんだろう。護送する為の部屋(?)の真偽の程は判らない、もしかすると私はインドの列車の構造に付いて誤解しているかもしれないので、あの部屋の使用法をご存知の方お知らせ下さい。

 話はイランに戻る、こうしてわき目も振らず、西へ西へと憑かれたように進んだ。国境の町タブリズからトルコのエルズルムヘ、とうとうここまで来てしまった、ボスポラス海峡を越えればヨーロッパだ。

 

パキスタンのバスの切符とタブリズの町から国境までのバスの切符


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