第21話  バラ色の人生 ①

 ラオスからバンコクに帰って来た私は、相変わらず石原邸の下男をやっていた、(Y)は送金をしてもらいタイを旅立った。
 石原邸ではちょくちょく、バンコク駐在の日本人が集まりマージャンをやっていた、ある夜、そこで私の事が話題になった、パイをかき混ぜながら、何だこの汚いのは、と誰かが石原さんに訊いたのが始まりだった、無一文で乞食やってて日本に帰れないっていうから拾ってやったんだ、フーン、で、どこ行って来たんだ、マージャンの手も止めず、色々な事を訊かれた。
 その事があって、ある日本の会社で働ける事になった、まさか日本の会社、それもバンコクで働けるとは思っていなかった、すぐにお金を借りて上から下まで揃えた、こうして私の日本帰国作戦は中止になった。

 その会社での仕事といったら、出庫伝票にサインをするだけという到って簡単なものだった、注文が来る、その品を女の子が、倉庫の棚から探して持ってくる、注文と品物が一致すればサイン、特技も何も無い私にとって丁度いい仕事だろう、暇(大概暇だった)な時には女の子達にタイ語を教わった、彼女達は皆若く、高校を卒業後数年しか経っていないだろうと思われる子達だった、年齢も近かったし、駐在員と違い近寄り難くはない、そんな子5~6人と毎日楽しく過ごした。

 初めて給料をもらって驚いた、日本で貰っていたのは2万円程だった、1年程前の事だ、それがなんと3、000バーツ(約6万円)もある、倉庫にいた女の子達は、800バーツぐらいだった。
 給料も条件も訊かなかった私はまさかこんなに貰えるとは思ってもみなかった事ですっかり有頂天になってしまった、石原さんには3食付きで月800バーツを払うという事で、居候という身分は返上した。
 左の写真が始めて貰った給料のものだ、7日間カットされている、という事は、69年5月8日から働いたんだろう。

 月800バーツを払っても残り2,200バーツもある、単純に計算しても一日70バーツ、乞食をしていた私には使い切れない金額に思えた、私の記憶によれば、バミーナーム(ラーメン)、ぶっ掛けのご飯一皿が精々2バーツだった、お金があればどこでも面白い、この一年間の遅れを取り返すべく毎夜セッセと遊び歩いた。
 女の子達と野外のレストランへ行って、飲んで食べても100バーツしない、もっともそんなに高級な店じゃないけど、数ヶ月経つと今度は、給料日前になるとバス代もないという事になってしまった、倉庫の子達はあまり高級取りではないから事務所の女の人の所へお金を借りに行く、10バーツ、20バーツをだ、そこにアンパン(名前だ)というおばさん(30歳ぐらいか?:当時の私からみればおばさんに見えた)によく借りた、よく説教されたが必ず貸してもらえた、今どうしているだろうか。

 衣食住、おっと間違えた、食衣住だ、満ち足りて不服もない、お金がなくても給料日までだ、どこかへ行きたい、行った事のない国へ、そうだ、オーストラリアへ行こう、急にタイを出たくなり、シンガポールからシドニー・メルボルン行きの航空券を買った。


 バンコクのHな会社、じゃなくてHの付く会社では11ヶ月間働いた。
 半年も過ぎると、単調な毎日が面白くなかった、同じ事の繰り返しの毎日なんて。
 シンガポールで会った(Y)がオーストラリアのメルボルンで働いていたので彼の所に行く事にした、高級盗り(また変換をミスった:高給取?が正解だ)だった私はシンガポール・メルボルン間を飛行機で行く事にして、マレー半島を南下したのが、1970年の5月末だと思う。

 こうして、第一次「ばら色の人生」も一年程で、自分から終止符を打ってしまった。

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