第11話  コペンの誕生日

 68年11月9日、コペンハーゲンに降りたった私は路面電車(トロリーバスだったかな?)ですぐにYHへ向かった。

 どんな建物だったか忘れてしまったが、ホールのような所があったような気がする、そこにソファーなどあり隅のほうだったかにピアノ(オルガンだったかも)があった。
 東南アジアだけのつもりがとうとう北欧まで来てしまった、これからどうしたらいいんだろう、そこのユースには日本人が何人かいた、今までほとんどと言っていいくらい日本人と会ったことはなかった、懐かしさもあり、彼らと情報の交換をするが、ほとんどが北周りでヨーロッパへ来た人達で、一人だけアメリカで稼いで来た人がいた、私が今までの話をすると、へーッそんなに安いの!帰りは南周りで帰ろう、と、何人かの人に詳しい話をしてくれる様に言われた、確かにヨーロッパ、アメリカと比べたら、東南アジア、中近東ははるかに安い、だがその分、旅行のしやすさ、快適さなどは比べものにならない(少なくとも、ヨーロッパ、アメリカでは料金を払ったお客をバスの屋根に縛り付ける様な事はしないだろう。)、私はシンガポールーバンコクを往復しボンベイから陸路コペンハーゲンまで来た、約3ヶ月で200ドルしか使わなかった、交通費、ホテル、食事代でだ、で、これからどうするの?とアメリカから来たやつが訊いた、300ドルあるから今引き返せば日本へ帰れるけど、ここらでウロウロしてたら帰れなくなるかも、えーッ 300ドルで?、だってここからインドまで100ドルもあればいいしボンベイから船で日本まで200ドルはしないからね、半信半疑の彼に、今までに私が使ったお金の内容を詳しく話してあげた。
 陸路インドへ行くことに決めた彼はアメリカで稼いだ500ドル以上の金を持っていた。

 私は、彼の話を聞いて、働くのも面白そうだなと思い、街に出て仕事を探した、デンマーク語はおろか英語もおぼつかない私に出来る事といったら皿洗いぐらいだろうと、レストランを片端から当たってみたが駄目だった、正面入り口から入るわけにはいかないので裏口へまわる、扉を開けて「エクスキューズミィ」となるのだが、とたん「ネイ・ネイ」と言われるのは頭に来た「ない・ない」と聞こえるのである。
 そのうち日本料理店を見つけたので裏口を探したが見つからない、エーィ、ままよと正面から入ったのがいけなかった、「いらっしゃいませ」とお姉さん達にテーブルへ案内されて座らされてしまった、完全にタイミングを外された私にメニューが差し出される、もうこうなるとむこうのペースで事が運ばれる、料理も運ばれる、やけくそで食べた料理は何だったのか覚えていない、その時のレシートがこれだ。
 20.75クローネ(約1,000円)、1968年(昭和43年)当時の1,000円とはどのくらいの価値があったんだろうか、確か横浜、青森間の鉄道料金が2,000円ぐらいだったと思う(違うかな?)
 
 3ヶ月ぶりの日本食を食べさせて頂きありがとう御座いました、当時の店員さん達の教育はすばらしかったですね、まだ営業は続けているのでしょうか?。
 今度はちゃんと食べに行きます。  


 ようやく誕生日の話になる、3日間仕事を求めて歩き回ったが見つからず、ユースへ帰り日本人達とホールで話をして過ごしていた、10人程の女の子達がピアノを囲み、中ではイタリア人旅行者が弾き、歌を唄っている、女の子達もうっとりとしているようだ、うまいんだよなァ、あいつなんか、とてもまねが出来ないな、でも誕生日のお祝いの歌だと思えばいいか、と言うと、誰かが、こいつ今日が誕生日なんだってよ、と、大きな声をだした、とたんに、イタリア人を取り巻いていた女の子達が、わーッと言いながらこちらに走って来るではないか、私は一瞬、女の子達に囲まれてお誕生日のお祝いにキスの雨と思った、ところがだ、女の子達は次々と手を差し出し握手を求めるではないか、ち、違うんだよなァ、私は想像とは全く違う成り行きにがっかりしながら握手をした。

 後で聞いた話では、あの女の子達はデンマークの地方からコペンへ旅行に来た中学生との事だった、てっきり私と同じくらいの年齢だとばかり思っていた私は、何だガキじゃねーか、と自分に言い聞かせた、まったく彼らの年はよくわからない、なんということのない誕生日でした。

 11月のデンマークは寒かった、どのくらい寒いかは半袖シャツで歩き回って体験して下さい、肌に字が書けます、何を言っているんだか解らない人は実験してみましょう。

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