2人で、シンガポールからバンコクを目指した旅がどんなものだったのかまるで記憶にない、彼と会った時、私は100ドル(少しかけていただろうが)持っていた、これだけあればバンコクまでは十分過ぎる、お釣がくるはずだった、ところがバンコクに到着し、ホテル代を払ったら100バーツ(当時約2,000円)程しか残っていなかったのだ、マレーシアでかなり遊び歩いたか贅沢をしたものと思われる、しかしインドで数ヶ月の乞食修行を積んだ私にタイは楽勝に思えた、寺院が無数にあったからである。
相談の結果、この100バーツで日本食を食べてしまおう、と決まった、明日からはどこかの寺院へ転がり込めばいい。
夕方、我々は日本料理店「花屋」を目指した、暖簾を掻き分け扉に手がかかると同時に、扉が開き「ご馳走さん」と、男が出てきた、お互いに顔を見合わせ同時に驚きの声が出た、日本を出た時の船で乗り合わせた人だった、手短になぜここに来たかを話すと、そうか、それじゃ入りなおそうと言う事で、その夜は今までの話などで盛り上がった。
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石原さんは戦前から東南アジアに居た人で、当時は木材(チーク材)を日本へ輸出していた、我々は昼間はやる事もなく近くをブラブラしたり、そこのお手伝いさんと遊んでいた、正式に雇っているのは一人みたいだが、常時3人はいた、彼女の妹だとの事だった、3人はいつもけらけらと話をしていた、下の2人はまだ十代であろうか、明るい事この上ない、タイ語の全く出来ない我々に何か言っては笑っている、からかわれていたに違いない。
私は、1ヶ月のビザが切れたらシンガポールへ行き、そこへ送金してもらって日本へ帰ろうと思っていた、ところが、暴動の為、マレーシアの国境が閉じられてしまい、通過する事が出来ない、ビザの期限は迫っている、どうしたらいいのだろうか、石原さんに相談すると、ラオスに行って来ればいいと言う、当時はベトナム戦争真っ盛りの頃で、ラオスも危ないのではないかと思っていた私には、全く考えてもいなかった国だ、早速ラオス大使館へビザの申請に行った。
バンコクから夕方バスで出ると、朝ラオス国境にあるノンカイという町に着く、そこから渡し舟でラオスへ渡り、乗合タクシーでビエンチャンへ行く、その足でタイ大使館でビザを申請し、明日の出来上がりまでブラブラしていればいい。
シンガポールといいバンコクの「花屋」での事といい、本当に運がいい、これもインドの神のおかげだろう。
そういえば「花屋」での会計はどうしたのだろうか、払ったとは思えないので、改めてお礼を言う、石原さんを紹介してもらった事で随分と助かっている、以後バンコクに数ヶ月間住めたのもそのおかげだ。
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マレーシア国境が閉じられたのは1969年の4月末だと思う、選挙で中国系の人物(名前は忘れた)が当選し、マレー系の人達がそれを不服とし暴れたためだ。
タイから陸路出国というと、マレーシア、カンボジア、ラオス、ビルマ(ミャンマー)があるが、ラオスは上記の理由で考えてもいなかった、ビルマは反対側だし、カンボジアも危ない、そうなると南下してシンガポールしか行き場はない、その直前の出来事だったので非常に焦った、また日本へ帰るチャンスがなくなってしまったのだ。
当時のビエンチャンには、特に私を楽しませる様なものは何も無かった、終日ホテル近辺をウロウロして過ごした、アヌーホテルというホテルを定宿としていた私はそこのコーヒーショップへよく入り浸っていた、そこには海外青年協力隊の人達もよく出入りしていたようで、会う事も多かった。