第23話  無一文 ③

 メルボルンには着いたが、あても何もない、取り敢えず(Y)の所へ転がり込む、メルボルンに着いた5月25日からシドニーへ逃げ出す6月23日まで何をしていたのか殆ど記憶にない。
 オーストラリアに着いた時、私はUS100ドルしか持っていなかった、日本料理店(名前は忘れてしまった)で何日か働いたが、辞めてしまった、なぜ辞めたのかも記憶にない、ある日、(Y)が貯めたお金で南太平洋の島々を周りアメリカ(だったと思う)までの船を予約してあり、切符を取りに行くというので付いていった、旅行代理店へ行ったが見つからない、たしかここだと言うが、そんなものは見当たらない、ある日突然いなくなったらしい、どうしていいのか判らない、泣き寝入りになってしまった、貯金の大半を船賃にまわし、いくらも持っていない彼と、ビザが切れそうになっている私達は途方にくれてしまっていた。
 その日(6月22日か23日)、私達は移民局の一室にいた、移民局のお姉さんがパスポートを持って部屋を出ていったあと、やはりお金も仕事もない我々にはビザの延長は無理なのではないか、ひょっとすると強制送還かもしれないという事になり、無謀にもパスポートをおいたままそこを逃げ出してしまった。
 我々はすぐバスでシドニーへ向かった、我々にはあるお金儲けのアイデアがあった、シドニーでそれをやろうという事になっていた、シドニーへ着くと週32ドルだったか34ドルだったか(若しかしたらもっと高かったかもしれない)の一軒家を借りた、当時1オーストラリアドルは、約400円だったのでかなりいい方だと思う、セントラルヒーティングで二階建てであった、我々には必要なかったが、お金儲けに必要だった、それとある日本人相手の団体が関係していた、準備が整うとあとは電話を待つ、最初の週は準備の都合で電話のないのは判っていたが、その後いくら待っても電話はない、とうとう家賃も払えなくなってしまった、夕方、仕事帰り(?)に大家が家賃の催促に来る、初めの頃は色々言い訳をしていたが、それも難しくなる、夕方になるとかなりの時間を寒い公園で過ごすのが日課となってしまった、温水シャワーもフカフカベッドも暖房も揃っている家だったが唯一食料だけが欠けていた、とうとう断食生活となってしまった、丁度日本料理店で働いている日本人に出会ったので私がお金を借り、職を探す事になった、職安に行って10ドル(だと思った)払うと3軒紹介してくれる、決まらないと又10ドル払って3軒というようなやり方だった、私はとりあえずお金になればいいので最初に紹介されたホテルの皿洗いに決めた、食事が付いていたのも嬉しかった、この時のエピソードが「チャイタイム」の4杯目にある。

 大家には必ず家賃は払うと約束をして、週13ドルのアパートに引越しをした、お金儲けの話はとうとうチャラになってしまった、捕らぬ狸の皮算用どころか子狸、孫狸の数まで数えていた私達はがっかりした、後で解ったのだが、ある日本人相手の団体のミスだった、もう少しで日本人2人餓死事件になったかも(?)知れないのに「スイマセン」で終わった、もっとも、こちらも強く言えない理由はあったが。

 ホテルの皿洗いは楽であった、ウエイトレス、ウエイターがさげて来る食事のかすをドラム缶に捨て、ベルトコンベアみたいな食器洗い機に入れる、水が出て、洗剤が出て、お湯が出てというふうに流れて行き、反対側にほとんど乾燥して出て行く、それをギリシャからの移民(であろう)の親父と2人でやった、この親父がギリシャのくせに「オーソレミヨ」と歌いながらやっていた。
 オーストラリアに人種差別はないように思われるが、当時にはあった(と私は思う)、南ア(以前の)のように、はっきりしてはいなかったが、イギリス系以外の移民は小馬鹿にされているように見えた、私も「ジャップ」と目の前で何度か言われた、そのホテルのコックもシェフはオーストラリアかイギリス人であったがその他はイタリア、スペイン人等であった、そこにシェフ見習い(?)の若いのがいた、ある日、皿洗い機に皿を入れていると、右斜め後方で怒鳴り声がする、何だろうと振り向くと何かが私目掛けて飛んで来る、危ういところでそれを避けた、状況からいって、若いのが投げた事は間違いない、反射的に体を回し、持っていたステーキ皿をそいつ目掛けてぶん投げると、傍にあったナイフを掴んでカウンターを乗り越えた、ステーキ皿は、顔に当たった!と思われたが、後ろの壁に当たり、砕け散った、私は近くにいたコック連中に、やつはシェフに抑えられて、バタバタしていた。

 一体何があったんだろうか未だ理由は解らない、その時はまだ皿洗いを始めて間もない頃だったので、周囲の状況があまり把握出来ていなかった、移民であるコック連中(ウエイトレス、ウエイターも)は皆その若いやつの態度が気に食わなかったらしい、が、面と向かって喧嘩が出来ない弱さがあったらしい、その事件以来私に対するコック、ウエイトレス、ウエイターの態度が変わったし、食事もそれまでそこらのものを適当に食べていたのが、コックが作って呉れるようになった、毎回デザートまで付いた、特にイタリア人コックの一人は親切で、何が食べたい?、とよく私に尋ねた、オーストラリアを離れて、長い事、このコックを思い出した事はなかったが、日本へ帰国し「コロンボ刑事」を見て、すぐにあッと思い出した、コロンボ刑事をふっくらさせたらそっくりだ、今度コロンボ刑事にあったら、70年頃オーストラリアでコックをやっていた事があるか訊いてみよう。

 何ヶ月かオーストラリアにいるとタイにむしょうに帰りたくなった、ヨーロッパ同様こういう国は向かないらしい、旅行会社に行き12?月の船を予約した、そしてそれの写しを添えて、このとおりオーストラリアを出ますのでパスポートを返して下さい、と、移民局に手紙を書いた。
 驚く事にそれはちゃんと書留で送り返され、お咎めもなしでビザも更新されていた。


 このオーストラリアでの無一文が最後である、お蔭様でこの後はない、明日は判らないが多分大丈夫であろう、もうそれに対する、気力、体力もないであろうから、勘弁してほしい。

 オーストラリアは綺麗な国だった、広大でもあった、然し私にとってはあまり興味のある国ではなかった、年をとってから住むのはいいかもしれない。
 5月から11月までいて4ヶ月間皿洗いをした、週給50ドルくらいで、 1週分が家賃、もう1週分が食費となり2週分が貯金にまわせた、つまり月に4万円も貯金が出来たのだ、昭和45年の事だ、外国人が日本で不法滞在、不法就労までして稼ぎたいのはよく解る、私は短期の滞在だったせいか、この時払った税金が在日オーストラリア大使館を通じて返還され母親が受け取った、100ドルぐらいだったと思う。

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