私が日本を出たのは1968年の事で、第二次世界大戦が終わり、20年程の時である、20歳代で出征した人は40歳代で、まだまだ隠居する歳ではない、そういう人達が街にいたので、嫌な思いもした。
オーストラリア(1970年)では面と向かって「ジャップ」と何回か言われた、人種差別なのか、その昔、東南アジアで日本軍に虐められた経験を持つ人なのかは判らないが。
シンガポール、マレーシアではハッキリしている、日本軍の残虐さについて色々聞かされた、私が手をくだしたわけでもなし、生まれる以前の話ではあるが、何故かいやーな感じだ、いい話を聞いた記憶はない、今はほとんどそういう類の話が耳に入らないのでありがたい。
タイにいたインドネシア人だが、私はタイ人だとばかり思っていた、私のタイ語能力では本物のタイ人との区別などつけられなかったからだ。
彼はインドネシア人でオランダ人との間に生まれたハーフであった、彼の村(街)では宝石の加工が盛んだったそうで、彼もそれを職業としていた、そこではたいした稼ぎにならないので、シンガポールへ出稼ぎに行ったんだそうだ、戦前(第二次世界大戦)の話だ。
そこに勃発したのが第二次世界大戦、あとはご存知の通り、シッチャカメッチャカで、彼は来たくもないタイに来てしまった訳だ、以後死ぬまで(死んでも)故郷には帰れなかった。
彼が倒れ、病院へ運ばれた翌朝、私は彼の病室の前の椅子に座っていた、面会謝絶の病室内から医師が出て来て、彼の死を告げた。
日本軍(日本人?)を怨んでいるだろうと思われる彼だったが、私にそんな事は一言も言わなかったし、そんな素振りもなく私に親切だった。
彼は無国籍だった為、タイを出られなかった、故郷へ帰れない原因を作ったのが日本軍にあって、私は日本人である、貧乏ではなかったのだから、帰れないというのは非常に無念だっただろうと思う。
今、彼はタイの墓地に葬られている、タイへ行くと必ず彼の墓参りに行く。
終戦後、日本に帰れず(帰らず?)、現地に残っている日本人にも出会った、アユタヤにいた人の所へは近かったせいもありよく行った、72年代(?)の初め頃まではビルマ・タイ国境辺をウロウロしたので、何人かと遭った、中には、本当に日本人?というくらい現地化している人もいて驚かされた、話をしているといつのまにかタイ語になってしまう、本人は全然気がつかない、戦後、日本人という事をひたかくしにして生きて来たのだろう、子供は全く日本語を理解出来ない、戦前から商売や駐在員としてタイにいて戦後もそのまま残ったという人と、全く違う。
南タイ出身でいまバンコクで働いている元日本兵の息子となんとなく今でも交流があるが、彼も全く日本語が解らない。